福島原発2011/03/16 00:05

学生の頃に原子力発電所で働く労働者の仕事についてのルポルタージュを読んだことを覚えています。「原発ジプシー」という本です。古本屋さんでみつけたら是非一読をお勧めします。 あなたが原子力利用に反対であれ賛成であれ。

電力会社の管理のずさんさ、騙しと言ってよい下請け作業員の扱いなどのお話を思い出しながら見る電力会社幹部の会見は責任回避と言い逃ればかりで腹立たしいものばかりでした。

一方で現場のひとたちは命を賭けて今も仕事をされているはずです。作業者、エンジニア、そして自衛隊や米軍の兵士。それが比喩ではないことは痛ましいことです。 事態が収拾されるまでに何人犠牲となるのか想像も尽きません。 事故と戦うすべてのひとたちに幸運を。 みなさんが今年の桜も、来年の桜も観れますように。

Blood Brothers2011/03/17 00:05

かつてわたしはテキサスに住んでいたことがあります。テキサス州は日本人とは繋がりが深い土地です。正確に言えば日系アメリカ人ですが。 かつてWW2中にテキサス州兵の部隊211人がドイツ軍に包囲されたときにその救出を行ったのが日系人により編成された442連隊2800人でした。221人を救出するために800人の日系人が死傷しました。戦時の日系人は強い偏見を持たれ、アメリカ国民であるにも関わらず強制収容所に閉じ込められており、彼らはアメリカ人としてのアイデンティティを血を流して示す必要があったのかとも思います。なにより彼らはアメリカ人なのですから。ユダヤ人強制収容所を解放した連合軍部隊もこの日系人部隊です。

いずれにせよ日系アメリカ人がそのときに血を流して助けたことで日本人である現代のわたしも多少なりとも恩恵を受けました。このエピソードをわたしは元軍人の上司から聞きいくつかの文献を読みました。

もちろんそのような軍事的オペレーションであれ、災害に対する国家間の支援であれ、外交には政治的意図や別の目的があることは承知していますし、ナイーブに感激するほどドラマ中毒でもありませんが、国家間の真の友情には血を流すことが必要であるとも前述の上司はわたしに言いました。たしかにそうであろうと思います。血を流すとは比喩ではありませんが、戦争のことをさしているわけではもちろんありません。わたしは学生時代にアルチュセールなど読んでいた「アカ」なので暴力装置という言葉にも違和感はありませんが、われわれを救うために血を流しているのはその「暴力装置」や「権力の犬」達であってすばらしいお題目を唱えているご立派な方々は何をやるのか?人物を見極めるには権力を与えてみれば良いという言葉がありますがまさにその通りです。

真の友を知るのは逆境の中でこそです。

原子力発電はやめるべきなのか2011/03/19 00:14

福島の事故を契機に各地の原子力発電計画がホールドされています。恐ろしい事故を目の前にして一時保留にすることは正しい判断だと思います。しかしわれわれのエネルギーを何に頼るかは難しい問題です。世界の20%の人口が50%のエネルギーを食い尽くしていますが、エコな方々が推奨する太陽電池などの非効率な技術では富める国と貧しき国の格差を固定化することでしか問題を解決することなど出来ないでしょう。一方で不都合を隠蔽し国民を騙しながら国策として強引に押しすすめられてきた原子力発電もこの事故です。電力会社や政府の言い分を信じる人は少ないでしょう。

現在のエネルギー消費は地球という惑星の規模に対して過大であるという気がしますが、仮にエネルギーの総和は現状を維持するとして、地球上の人間が「最小不幸な」暮らしをするとしたなら(どこかで聞いた言葉ですね。)一人当たりのエネルギー消費は今のインド並みに抑制する必要があるようです。それにしても人口が自然に増加すれば制限はより厳しくなるだけです。いやなルールのゲームです。

問題の根源は地球にひとが多すぎることにあるのだと思いますが、増えすぎた魚は間引くか、水槽を増やすしか無いのです。戦争や飢饉による人口の自然な間引きなどという残酷なアイデアは受け入れがたいですが、ならば貧者を生かさず殺さずの貧困状態に置く不公平を維持するか、新しい水槽を増やすしか方法はありません。ガンダムみたいですね。

原子力発電では発電所や潜水艦など様々な事故で多くの方が犠牲となっていますが、彼らは何のために死んだのか考えるべきかと 思います。安全が保証されないシステムの運用を止めることは当然としても安全性を高める余地はないのでしょうか?